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(写真提供 母・薫さん)


ボールパーク便り  柳裕也〜感謝〜C 母・薫さんインタビュー  

 
 10月20日に行われたプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けた柳裕也主将(政経4=横浜)。横浜高から明大に進学。3年次にはエースになり、今年からは「エース」兼「主将」としてチームをけん引した。通算22勝、春は投手3冠に輝いた柳が残した実績は、OBの川上憲伸氏(平10商卒)、野村祐輔選手(平24商卒・現広島東洋カープ)に匹敵する。本企画では、紫紺の歴史に名を刻み続ける柳選手の素顔に迫ります。

 今回は柳選手の母・薫さんにお話を伺いました。(この取材は11月27日に行われたものです)



――裕也選手の名前の由来は何でしたか
私と主人で「裕也」という呼び名を決めました。その思いには「裕」っていう優しさが伝わる呼び名の中で、男の子なんだけれども強さとかではなくて、まずは誰にでも優しさを持って生きてほしいという思いを持ってその名前に至りました。

――幼少期はどんなお子さんでしたか
生まれた時から病気も何もしなかったです。生まれは3314グラムで、もともとお父さんが大きかったので、幼稚園に入っても頭一つ抜けてるくらい大きかったです。体格は大きいけれども優しい気持ちを持ち続けてくれていて、そこが私の一番の願いでもあったので、優しさというのは幼稚園から今に至るまで持ち続けてくれていたと思います。その中で運動会での競争心とか負けず嫌いなところは強くありましたね。

――野球を始めたきっかけは何でしたか
地域の少年団があったんですけど、そこに同じクラスの友だちが入っていって。裕也も絶対にやりたいと自分から言ってきましたね。最初に球場に出向いたのも親と一緒じゃなくて、友だちと一緒に行って入りますということを決めたと思います。それまではスイミングをやっていたけど、そこから野球に専念するということで3年生後半からは野球一本でしたね。



――野球漬けの毎日だったのでしょうか
常に友だちと野球に行って、休みの日も地元の友達と遊びに行って、お家でじーっとしてるよりも外で野球か遊ぶかでしたね。楽しんで野球をやっていたと思います。自宅でも週末は応援に行くとか、球場への送り迎えは私とか主人でしたけど、やっぱりそこに行くと一日中同じメンバーでやっているので、小さい子どもなりの絆ができていて。もともと好きなことを一生懸命やるタイプなので、そこは私たちが何も言わないでも楽しみながら喜んでやっていたのを覚えています。

――印象深い試合はありましたか
一つ一つ一生懸命やっていたと思います。親という目線で見ると小6の時にお父さんとの別れがあって、そこから1週間ぐらい後にすぐ大きな大会があったんですよね。でも涙を見せずに、前日に会場入りしてちゃんと今までと変わらずに仲間と監督と帯同できたという姿がすごく私の中で支えられました。迷わず、後ろを見ることもなくそこをしっかりスタートできた部分、越えなきゃいけない部分を越えてくれたと思います。



――中学生になってシニアチームに入りました
中1の頃にはスポーツ少年団の仲間と一緒にずっと軟式を続けるものだと私も思っていました。小・中続きで地域が別れないので、裕也はこの仲間とまた中学3年間一緒なんだなと。その中でシニアの方に声をかけてもらって、そこはご縁をいただいたかなと思います。体格もよかったし、結果も小学生ながら残していたので、シニアの監督さんの誘いも気持ちのどこかにはあったと思います。今までずっとやってきた仲間たちとの友情もあったと思うんですけど、シニアにいきたいと裕也は自分で決断しましたね。

――横浜高校へはどんな思いで送り出したのでしょうか
裕也がしっかり横浜高校に行くっていう自分の思いが全然揺るがなかったので、もちろんその中には私が賛成してくれるんだっていう気持ちもどこかにはあったと思いますし、お互いに言葉に出さなくても分かり合える部分はありました。裕也が決めた横浜高校なのであれば、私は何かがあったらすぐに飛んでいこうと思いました。全く不安はなかったです。九州から出てどこまで力が通用するか、それは行ってみなきゃわからないから。それと横浜高校でも新しい出会いがたくさんあるよという気持ちで送り出しました。今までも親に言う前にある程度の間違いないんだっていう思いをちゃんと持って何でも言ってきてくれる子だったので、話は真剣に聞くし、そうやって決断を出しましたね。

――甲子園のマウンドに立つ息子さんの姿は見てどうでしたか
本当に1日も休まずに厳しい練習、高校野球はみんなそうだと思うけれど、想像以上の厳しさだったんじゃないかなと思います。私の知らない時間、練習とかも全く見たことがないので、厳しさを乗り越えての今の裕也のマウンド姿があるんだというのは感じていました。横浜高校は厳しさだけじゃなくて、寮の料理一つにしても「おかえり」って迎えてくれる寮母さんにしても本当にファミリーだなと思います。そういった中で生活ができたことに私は本当に感謝していて、マウンドに立って戦わないといけない甲子園なんだけれども、やっぱり厳しさ以外の面で裕也はたくさん支えられてたんだなと思いました。やっぱり私は母なので、横浜高校の寮母さん、佳明くん(渡辺内野手・政経2=横浜)のお母さんね(笑)、そういった温かさがあったから厳しさを越えられたと思います。横浜高校に出会えてよかったねという思いです。

――大学進学の前には社会人の誘いもありましたが
社会人が早いんですよね。高2の1月ぐらいだったと思います。やっぱり裕也は家族のこと、私のことを考えて働くことを考えたんだと思います。そこは私が初めて違うよって言って、ちゃんと言いました。裕也は大学に行って4年間自分の力を試さなきゃいけないと思っていたし、周りの横浜高校の指導者の方も大学に行って4年間大きく成長してほしいという思いがあったと思います。もちろん高卒から社会人に行くのも素晴らしいことだし、大学だけがいいことではないけれど、裕也のタイプでは大学行きを絶対に勧めました。最初で最後の反対だったと思います。

――明治大学にはどのような印象をお持ちでしたか
私はあんまり大学野球が分かっていなかったので、周りの指導者の方の意見を聞いて、裕也自身も自分のことをわかってくれる先生に相談しながら、柳は明治に行ったほうがいいと、まだまだここから自分を発揮できる大学なんだという感じでした。明治が一番いいなと聞いた時に、全く「え?」とかも思わなかったし、私も裕也は明治大学に行く子なのかなと思いました。東京六大学で投げたいという思いはすごくあるのが分かっていたので、何の不安もなかったです。合格できればいいなという思いで、最後の最後のセレクションの発表までは祈る思いでいました。

――明治のユニホーム姿を初めてみた時はいかがでしたか
1年生の時ですね、リーグ戦のベンチでまだ投げていないと思うんですけど「ここで始まるんだな」という思いがありました。やっぱり大学1年生はまだ子どもで、4年生の先輩たちはとても大人に見えるので、ベンチで先輩たちと一緒にいる姿を見て、たくさん学ぶことがあるんだなと思っていました。それ以降のことは想像もしていなかったですね。

――リーグ戦にはどの頻度で来られていましたか
3年生の秋までは1、2戦の頻度でリーグ戦を見にいってました。先輩たちもいたので「裕也はいつ投げるのかな」という気持ちはありましたね。そこからだんだんと投げるようになって、私の中で気持ちの変化があったのは、キャプテンを任せていただいてからですね。「どこで裕也が投げるのかな」とかは思わなくなりました。みんなを見に行きたいと、野球部のみんなだけではなくて、応援席も上から下までがすごくて、自宅にいると携帯のネットでしか応援ができなかったので、神宮に行って私はここを見たいと思うようになりました。ベンチであったり、みんなが整列したりしてる姿とか、吹奏楽部、チア…支えていただいてる部分を私の中で目に入れようと思っていました。自宅にいると、応援はしているんだけれど勝敗になっちゃう自分が嫌だった。正直球場にいる以上に自宅にいるってもっと緊張するんですね。でも試合が見れていると状況がわかったり、たまには応援のほうをずーっと見ていたり、応援団、吹奏楽、応援席の方たちも精一杯応援していて、試合始まる前と後で「ありがとう」という気持ちが言葉では伝えきれないんですけど、神宮に行って応援できる喜びはいつもありました。もちろん試合は勝たないといけないので、試合が始まると緊張は終わるまで途切れなかったですね。春は日程が出る前に「私は春は全部行こう」と決めていたんですよね。それは裕也を見るためだけではなくて、みんなを見たいという思いで。土曜日、日曜日に行って月曜日は仕事みたいな。秋は行けるかが分からなかったので、春は自分の悔いを残さないように通って、それですっごく元気を貰いました。日曜日は全部負けちゃっていたけど(笑)、最後の立教戦だけはなぜか月曜日まで取っていたんですよね。それで優勝して、もう最高の思いで空港に向かっていたのをすごく覚えています。裕也がキャプテンを最後まで全うできたのも、支えられてきてのことだったと思います。

――印象深い試合はありましたか
特にここっていうのはないんですけど、一戦、一戦私も必死でしたね。その中で今年のリーグ戦を2回優勝できたというのは、私もしっかりと見れたので格別な思いです。でもやっぱり勝った負けたとかではなくて、周りの明治を応援してくれる皆さんのおかげだと思っています。その中で裕也が最初と最後にみなさんに挨拶しているのは、その瞬間だけは絶対に欠かさないで見るようにしていました。最後は泣いていたけどね(笑)。みなさんに支えてもらっての裕也の姿なので、みなさんに感謝だと思います。

――野球以外の面では何かありましたか
やっぱり4年間常に野球だったと思うんですけど、普段の生活でお互いに支え合いながら、しっかり連絡も取りながらできていたと思います。離れている感覚よりも、隣にいる感覚で連絡を取り合うことがしっかりできたので良かったです。普段の練習とかは全く知らないけれど、野球という忙しさの中でも親子のつながりはしっかりあったと思います。この4年間、本当に明治大学野球部として育ててもらって、バスの運転手さん、毎日食事を作ってもらってる寮の方にもご挨拶もできていないし、皆さんにご挨拶をしたい思いです。この4年間支えていただいて、本当に感謝の思いでいっぱいです。

――ドラフト1位での指名を受けました
当日、その瞬間まで運命だと思ってました。正直今年は本当に厳しいと、10人以上は1位指名の名前が出ている中で、こんな思いでドラフトの日にちを待つんだというくらい、本当に指名していただきたいという願いと、何位とかいうよりも裕也の運命が決まる日だと思っていたので、どうか指名をいう思いで手を合わせた。(指名の瞬間はテレビ中継もありましたが)ものすごく緊張してて(笑)、その瞬間はやっぱり1人の息子としての裕也の夢がかなったという瞬間でした。うれしさもそうだけど本当にほっとした。ここまで野球を通してどれだけの方に出会って、支えてもらって、私たちは育ててもらったなと、あの瞬間は同時に感動しました。

――そこから神宮大会で日本一に輝きました
最高の喜びでした。空港に行く時も帰った後も「は〜優勝したんだ〜」と思いました。選手のみんなにとって、どれだけの心の思い出、宝になるんだろうという思いが時間が経てば経つほど感じました。(柳選手は大号泣されてた)息子なのでわかるんですけど、勝ってうれしいだけじゃなくて、このメンバーでちゃんとした公式戦は二度とないという思い、仲間に4年間支えてもらっての抑えきれない涙だったと思いました。(どんな連絡を取られましたか)メールで支えてもらった周りの方々に感謝して、この喜びを味わうことができたのが良かったねというのを伝えました。裕也も本当によいチームメートに恵まれて、本当に良かったと言っていました。

――ここからプロ野球選手になる息子に、かけたい言葉はありますか
ここまでたくさんの方々に出会って、これから野球で恩返しできる選手になってほしい。今までと変わらず、人とのつながり、1人1人とのご縁であったりというのを大事にしていってほしいです。柳裕也を今までと変わらずかわいがっていただけるような選手になっていただければと思います。

地元では横断幕が飾られている
地元では横断幕が飾られている

――あらためて裕也選手はどんな息子さんでしょうか
マウンドでは厳しさが出ていますけど、私はどうしても息子なので普段の裕也の姿を大事にしていきたいです。私が相談する時はちゃんと乗ってくれるし、すごい面白い子だと思います。届いたメールを見て「こいつ面白いな〜」とすごく笑ったりとか、母と息子じゃない感じの部分もありますね。4年間本当に監督、指導者の方に育てていただいたなという思いです。私の中では裕也は変わらないので、これからもこんな感じで何でも言い合える関係でありたいです。お互いに支えあっていければと思います。

――名古屋にも応援に行かれますか
そうですね。開幕したらどこで投げるのか、いつからなのかなと思いながら、マウンドに立つ日を見にいきたいです。

――ありがとうございました

[土屋あいり]


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